オビ付画像は後日、アップいたします。装幀は緒方修一さん
人生は甘美である 谷丹三作品集ISBN978-4-86488-249-1 C0093
四六上製608頁 本体6800円
視覚像がデフォルメし、狂気に近い想像が交ってくる――
戦中戦後の絶えざる噪音、そして批評の無関心のなか、ひっそりと世間へ向けつづけた目。
平凡な風景の底に、光りかがやく宝石の冷めたさ。
牧野信一を師とし、坂口安吾、中原中也、埴谷雄高を友とした無口な作家。
武田泰淳が褒め、種村季弘が愉しんだ、日本文学史上かくも自由で稀有な、ゆえに孤独な試み。■目次(収録作)
■谷丹三の静かな小説 ―あわせて・人生は甘美であるという話― 坂口安吾
-column- 信一と安吾
遺恨
センチメンタリズム
帰りたい心
星石
死んだ真似
フウインム先生
悪魔の酒
-column- 西洋私小説論(その一) ヘンリ・ミラーについて
黄色い雪だるま
わが身はいとわし
-column- 哄笑論
脱出未遂
動物貴族
闖入者
失行症
脱がし屋
-column- 共犯者
半助場外へいく
アヴェ マリア
-column- 安吾先生とファルス
谷丹三のこと 埴谷雄高
解説 齋藤靖朗
初出一覧
まず、人生の最大のたのしみがまるで、外国の、とある町のすみっこで、こっそり、ケンビ鏡的に、営まれているような感じになった。私にとって、それは、馬の尻にたかる一匹のアブですらない。(「西洋私小説論」)
ボードレールからスウィフトという流れを考えれば、理性に基づく諷刺よりも、理性をも疑うアンドレ・ブルトンの「黒いユーモア」に接近しているとみたほうが腑に落ちる。(齋藤靖朗「解説」)
坂口安吾〈谷丹三の言うように、作品の底を流れ、観察に途を与えるこの思想の光を、まず何をおいても養わねばなるまい。私はドストエフスキーもバルザックも決してそれほど怖れるには及ばないということを大胆不敵にもこのごろ考えだしたのである〉
埴谷雄高〈「三田文学」に坂口安吾は『谷丹三の静かな小説』という文章をのせている。また、浦和高校から東大仏文へ進んだ谷丹三が浦和高校時代にその校友会雑誌に書いた作品を同じ浦和高校にいた武田泰淳がほめていたことを私達は知っている。批評家に求められなかった彼の諷刺小説が同時代の作家達に認められ期待されていたことは、その不吉な薄暗い星にさしかけられたところのささやかな栄光である〉
■著者紹介
■谷丹三(たに たんぞう)
1909(明治42)年1月19日生まれ。旧制浦和中学(現浦和高校)を経て、1929(昭和4)年、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。1932年、卒業。卒業論文は「ボードレールの作品中に於ける匂いの言葉の研究」。在学中、牧野信一を訪ね、師事。牧野邸では坂口安吾と知り合い、また牧野には中原中也を紹介した。牧野の推挙で「紀元」同人となったほか、「三田文学」にも作品が掲載された。1940年10月、科学主義工業社入社、同社で向島の料亭「千歳」の娘房子と出会う。またこの頃、埴谷雄高と知り合う。1941年、房子と結婚、11月、外務省嘱託となる。戦後は新宿歌舞伎町にバー「チトセ」を開き、房子との離婚後は、ハワイ帰りのシズと「さいかち屋」を営む。1961年、恩師市原豊太の推薦で法政大学のフランス語講師となり、1968年頃まで務めて渡仏。帰国後、1979年9月7日、脳腫瘍で死去。