詩集『おしらこさま綺聞』のみちゆき
このたび、新詩集『おしらこさま綺聞』を幻戯書房より上梓しました。
この本は、東北弁や北関東弁を思わせるような、ちょっとふしぎなことばで綴られています。かねてよりわたしは、いわゆる「日本語」という近代言語の外側にある文体や声に興味をもち、そのリズムや制度で捉え切れない事象を、土地ことば的なセンスで掘り下げられないかと探ってきました。
いちばん最初に書いたのは、長篇詩「足だぢ」でした。まるで青天の霹靂のようにやって来たこの詩によって、本書の道は開かれました。じつは前詩集の刊行後、つぎにどんな試みをしたらいいか、わたしの心はさまよっていました。そんな2014年夏、津軽弁の巫女、桜庭スエによる『お岩木様一代記』(竹内長雄採録、坂口昌明編、津軽書房、2010年)に夢中になりました。当地出身の工藤正廣によるその音読も、くり返し聞いていました。
同じ時、学生時代に通った岩手県宮古市を再訪し、図書館の郷土史コーナーで「蛸と大根」という昔話を見つけました。それから自宅に戻り、津軽弁録音を聞きながら昔話のコピーを眺めていると、これが「日本語」で書かれてあるのが残念な気がしてきました。土地の響きで書き直してみようと思い付いたのです。言うなれば、ふとしたはずみでした。
ところが、ノートに綴りはじめると、旅の者である語り手が、情景を口説き下ろす設定がおのずと立ち上がり、土のにおいがするリズムにのって、内容が脱線をかさねていきました。鉛筆が勝手に走ったようでした。そして、いつのまにか、原作から遠くへ跳躍した「詩」と言っていいテキストができていました。
けれども、実力とは言えません。稀に、このような霹靂が降ってくるのが、詩作の無上の魅力ではありますが、それは不意に出現しただけで、二作目が同じように書けるわけがありません。わたしの東北弁の素養は、たった一作の「お岩木様一代記」きりだったのですから。
そんな折、岩手県大船渡市の仮設住宅集会室でことばの催しを立ち上げました。震災被災地で何かしたいという漠然とした思いからはじまったものでしたが、会場に主に集まってくださったのは、ご年輩のおばあさんたち、おんばたち。東北弁を学びたい思いも一方にありましたから、絶好の師匠たちとの巡り合いとなりました。お知恵を借りて啄木短歌を気仙弁の声に訳す企画を固め、成果として編著の本『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社、2017年)を出版し、映画の企画制作でも通いました。
そうこうするうち、桐生生まれのわたしのからだに、東北弁が入ってくるようになりました。「足だぢ」をひとりぼっちにすることなく、その深い濁音を核にした詩がしだいになんとか綴れるようになってきました。
けれど、おんばのような生粋のことばではありません。暮らしの場所としてそこを捉えるすべもありません。養うことができたのは、気仙弁とも桐生弁とも津軽弁とも言えない、それらの雑種、クレオールであるような地べたを這う響きの文体。そんな未知なる声と抑揚が、まるでふしぎなカメラのレンズのようにどこかへ導いてくれたような……。
ささやかな挑戦ですが、お手にとっていただけたら幸いです。
2024年3月
新井高子